織田 哲郎。 「作家で聴く音楽」第十一回 織田 哲郎

同じものを聴き続ける方が、学習できることってすごくあるんですよね。

TBSで「ザ・ベストテン」という番組が始まって、人気番組として定着していた、そんな時代ですね 高知学芸高校での寮生活が始まった頃、当時はフォーク・ソングが大流行していて、寮でギターを持っている奴が大勢いました
どうぞお楽しみに シンガーソングライター/プロデューサー 1958年3月11日生まれ そうです
その上で、何枚もアルバムをプロデュースして、本当に狂ってましたね 笑 あの番組は基本的に制作に関係する話が多いじゃないですか
1993年、オリコンチャート・ベストセラー作家部門において、12,404,990枚という史上最高のセールスで1位を獲得 ある時期の俺のような、あるいはある時期の兄貴のような人間にとって俺の音楽が届く事で少しでも楽になってくれるなら音楽を作り続けたい、と思った
客観性は持っているタイプの人間なので、すぐにビジュアル系で勝負する夢はあきらめました(笑) 今でもよく聴きます
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そして12月には「3分では短すぎる」というファンの声に応えて、この番組のスピンオフリアルイベント版、「オダテツ90分トーキング」が渋谷LivinRoomCafeで開催されることが決定した アーティストの魅力を引き出すことは、虫眼鏡で丹念に光を集めて、1点に絞込みながら火をつけるようなもの
遊び心溢れる楽しい曲です 最初は、最後の方でちょっとスタンディングありくらいの地味めな構成にしようかと考えていたんだけど、なんか違うなと思って、逆に普段よりロック色を強めました
今回で3年連続ですね 「なんだ、目が青くないじゃないか」とか言われたり(笑)、そりゃ、そうだよね、日本人だもの(笑)
イギリスに行ってからもレクリエイションルームにたまたま置いてあったピアノをよく弾いていました 例えばバブルガムポップスみたいなものでも、好きな曲が多かったですね
自分の血肉になった経験としては、中学時代の2年間をロンドンで過ごしたことが大きいかな 今回は1991年、当時の織田さんの仕事を振り返ってみたいと思います
88歳で運び屋 でも小学校4年生だったかな、ブラスバンドが結成されることになると、すぐにトランペットに立候補してね(笑)自発的にやりたい事やる場合のみ、集中力を発揮するタイプだった(笑)とにかく人から強制されるのは大嫌い(笑)
それで、ますます本格的な夜型人間になりました 織田 「いつまでも変わらぬ愛を」は俺の中で復活宣言なんです
モンキーズなんか幼稚だって、小学生の僕より上の世代の人達は言っていて その後も、相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」や「恋心」「トラブルメイカー」などのヒット曲を次々と量産
もともと人と何かをやる、という事が苦手なんですよ 当時はもちろんネットなんてなかったし、自分のカセットテープをこっそり聴くしかなかった
俺が一番生活掛かっていたから、真剣さが違っていたけど(爆笑) プロデュースの仕事は、曲提供からビジュアル面の演出までフル・プロデュースすることもあれば、本人達が詞や曲を書くバンドの場合はサウンド・プロデュースのみといった風にいろんなケースがあります
その頃ギタリストの北島健二さんと出会うことになる 帰国当時肩より伸びていた髪をまず丸坊主に(笑)
迷惑な奴ですみません(笑) 高校時代にバンドを組み、エレキギターを弾きはじめ、同時にオリジナル曲の創作をはじめる
まあ、東京渋谷界隈が一番長く住んだ場所でもあるので、強いていえばそこら辺ということになるのかなぁ 織田哲郎はJ-POPS界には欠かせない作曲家となっていきました
だから、みんなに観てほしいな 仕事としてやって潰れかけたのが40歳くらいの頃なんですよ
自分たちがそうであったように、音楽によって救われる人が世の中にいて、自分の作る音楽が人の悲しみを癒したり、誰かの心を励ましたり、苦しみをやわらげることに少しでも繋がるのであれば、それはとても意味のあることだし、もしそれが俺に出来るのであれば、音楽は作り続けるべきだと考えた 歌うようになったのは、東京で色んなバンドを見た時に歌が上手い奴が意外に少ないことに気づいてからですね
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